Cool !
2018.03.09
タイトルをクールにしましたが、何かクールなことが身の回りにおきたわけではありません。「頭寒足熱というのに医学的根拠はないらしい。coolという言葉の解釈の違い。」ということを皆さまにもお伝えしておきたいと思ってのテーマ。
10年ぐらい前のこと、私が以前フラメンコを習っていた先生が原因のわからない痛みに襲われて体が動かなくなってしまったのが線維筋痛症であることが判明、自然療法のM先生との出会いによって解消したということで、プラネットにM先生の書かれた本を持って訪ねてきてくださったことがありました。以来、その後にM先生の書かれた他の本も読んだりしておりました。そのM先生の講演会を友達の会社で企画したとのことで先月聞きにいってきました。
その話の中で「頭寒足熱」というのは、オールドバーというウイスキーのモデルになった長寿の人の秘訣をインタビューした中での言葉を語呂が良いように頭寒足熱と四文字熟語にしたのが発端らしいということなのでした。私が又聞きみたいに書くとニュアンスが変わってしまうかもしれませんが、「頭はクールに」みたいなことを言ったらしい。つまり上下対比させて頭は冷静だけれど下のハートははあたたかいみたいなことではなかったか?クールというのは今でこそ「カッコ良い」とか「冴えてる!」いうような意味合いでの解釈もあるけれど、当時は「クールは冷たい」と解釈されていたのでそうなったのではないか? というようなことでした。
頭が冷たい方がいいなら冬でも帽子はかぶらない方がいいわけだし、外国のドラマなどで老人がナイトキャップみたいな毛糸の帽子をかぶって寝ていたりもしますものね。M先生も「部屋が寒かったら帽子をかぶって寝ては?」というような話の中で「そういえば頭寒足熱と言いますがあれは根拠がないことですからね。」というようなことを言われたのでした。私は「ふ〜む、知らなかった。」と思ったので皆さまにもお知らせしておきたく思った次第。
10年ぐらい前のこと、私が以前フラメンコを習っていた先生が原因のわからない痛みに襲われて体が動かなくなってしまったのが線維筋痛症であることが判明、自然療法のM先生との出会いによって解消したということで、プラネットにM先生の書かれた本を持って訪ねてきてくださったことがありました。以来、その後にM先生の書かれた他の本も読んだりしておりました。そのM先生の講演会を友達の会社で企画したとのことで先月聞きにいってきました。
その話の中で「頭寒足熱」というのは、オールドバーというウイスキーのモデルになった長寿の人の秘訣をインタビューした中での言葉を語呂が良いように頭寒足熱と四文字熟語にしたのが発端らしいということなのでした。私が又聞きみたいに書くとニュアンスが変わってしまうかもしれませんが、「頭はクールに」みたいなことを言ったらしい。つまり上下対比させて頭は冷静だけれど下のハートははあたたかいみたいなことではなかったか?クールというのは今でこそ「カッコ良い」とか「冴えてる!」いうような意味合いでの解釈もあるけれど、当時は「クールは冷たい」と解釈されていたのでそうなったのではないか? というようなことでした。
頭が冷たい方がいいなら冬でも帽子はかぶらない方がいいわけだし、外国のドラマなどで老人がナイトキャップみたいな毛糸の帽子をかぶって寝ていたりもしますものね。M先生も「部屋が寒かったら帽子をかぶって寝ては?」というような話の中で「そういえば頭寒足熱と言いますがあれは根拠がないことですからね。」というようなことを言われたのでした。私は「ふ〜む、知らなかった。」と思ったので皆さまにもお知らせしておきたく思った次第。
断捨離とは言うけれど
2018.02.25
スタジオを始めた頃(23年前)に、当時としては思い切って購入したオーバーコート、友達に「コートは良いものを長く着た方がいいのよ、」と言われたことを懐かしく思い出します。スタジオを主宰するという自分にとっては大きな門出での記念みたいなことで買いました。長らくしまいこんでありましたが、大きな肩パッドが入っていたのをリフォームのお店で取り外して自然な形にしていただいて、数年前からまた着ています。
一時、断捨離が流行ったりもして「数年間着ない洋服類は処分する」というようなことが言われたことがありました。そのコートは10年以上着ておりませんでしたが、素材や色が気に入っていて処分できずにおりました。ダウンのコートが主流でいかにも流行遅れという気がしていたこともありましたが、また丈の長いコートを着ている人も見かけるようになりましたものね。
何しろ捨てられない性分で物が増えて仕方ないのですが、ビデオ40本ぐらいがブルーレイデイスク4枚になってダンボール一箱減りました。すべてのビデオをダビングしているわけでもありません。地上デジタルになって綺麗な映像を見ていると昔のテレビ番組を録画したの画像はあらくて「保存しておいても見返すことはないだろう。」というものも結構あります。NHKのBSの特集番組などには秀逸なものが多くて「フラメンコを極める」(だったかしら?)などはカンテ、バイレ、ギターなど超一流の人たちの迫力ある演奏で「録画しておいて良かった〜」と思ったりしました。来日した演奏家たちのステージの放送録画なども。
ダビングの作業中で、まだ気が遠くなるほどのビデオがあります。作業が終わるまでビデオ機器もちますように!
一時、断捨離が流行ったりもして「数年間着ない洋服類は処分する」というようなことが言われたことがありました。そのコートは10年以上着ておりませんでしたが、素材や色が気に入っていて処分できずにおりました。ダウンのコートが主流でいかにも流行遅れという気がしていたこともありましたが、また丈の長いコートを着ている人も見かけるようになりましたものね。
何しろ捨てられない性分で物が増えて仕方ないのですが、ビデオ40本ぐらいがブルーレイデイスク4枚になってダンボール一箱減りました。すべてのビデオをダビングしているわけでもありません。地上デジタルになって綺麗な映像を見ていると昔のテレビ番組を録画したの画像はあらくて「保存しておいても見返すことはないだろう。」というものも結構あります。NHKのBSの特集番組などには秀逸なものが多くて「フラメンコを極める」(だったかしら?)などはカンテ、バイレ、ギターなど超一流の人たちの迫力ある演奏で「録画しておいて良かった〜」と思ったりしました。来日した演奏家たちのステージの放送録画なども。
ダビングの作業中で、まだ気が遠くなるほどのビデオがあります。作業が終わるまでビデオ機器もちますように!
ピアソラ
2018.02.08
F.Tさん、スタジオへの4つ星の評価をどうもありがとうございます。グールルマップに地図を載せていただいているからだと思うのですが、グーグルから評価をいただいたお知らせメールが参りました。存じ上げないお名前ですので、先日の竹内氏の演奏会のお客様かしら?と考えてみたりしているところです。初めてのことでどうしたら良いものかわからないので、ブログにてお礼申し上げます。どうもありがとうございます!
昨夜、VHS<ピアソラのすべて>をダビングしました。ピアソラの来日ステージの録画と思い込んでおりましたが、ピアソラが亡くなってからの回顧番組のようなもので、細川俊之のナレーションでピアソラと共演した演奏者たちのインタビューなどの後に来日したときのステージが収録されているものでした。1988年の来日ステージということですから今からちょうど30年前になるのですね。
リベルタンゴで初めてピアソラを聴かれた人が多いのではないかと思います。この番組も「ヨーヨーマなどがピアソラを取り上げてクラシック界でタンゴがブームになっている。」というような流れから構成されたものでした。
私がピアソラを最初に聞いたのはフルートとギターの組曲<タンゴの歴史>。すごく気に入って「ギターとの二重奏でフルート吹いてみたい。難しそうだし、プロにお願いするしかないかしら?」と思ったりしておりました。その後スタジオに来られたギター奏者がプロを目指してスペイン留学もなさったことのある人で、スタジオでの内輪の演奏会でタンゴの歴史を共演したり、ギターの発表会で先生と合わせていただいたりして、「あのときの夢は実現している。」と思います。
ピアソラのお父様が亡くなったときに作られたアデイオスノニーノ。この曲を聴くと、お父様への愛情と感謝の思いに満ちているようで、私自身、(お父さん子だったので)自分の父親への思いと重なっていつも涙が溢れてきてしまいます。昨夜ピアソラ本人の演奏を聴いてまた涙‥でした。以下のyou-tubeの演奏ですとストリングスの甘くて優美なメロデイになるところで、お父様への厚い感謝の思いが溢れているように思えて‥。最近、お父様とお別れしたお友達からのメールに彼女の思いも重なってきます。父親は、かけがえのない本当に大きな存在だと思います。
以下ウィキペデイアからの引用
「1959年10月、ファン・カルロス・コーペス舞踏団とともにプエルトリコ巡業中、父親ビセンテ(愛称ノニーノ)が故郷で亡くなった知らせを受けた。しかし、ピアソラにはアルゼンチンに帰る旅費がなかった。ニューヨークに戻り、失意のなかで亡き父に捧げて作曲したのが「アディオス・ノニーノ」である。」
昨夜、VHS<ピアソラのすべて>をダビングしました。ピアソラの来日ステージの録画と思い込んでおりましたが、ピアソラが亡くなってからの回顧番組のようなもので、細川俊之のナレーションでピアソラと共演した演奏者たちのインタビューなどの後に来日したときのステージが収録されているものでした。1988年の来日ステージということですから今からちょうど30年前になるのですね。
リベルタンゴで初めてピアソラを聴かれた人が多いのではないかと思います。この番組も「ヨーヨーマなどがピアソラを取り上げてクラシック界でタンゴがブームになっている。」というような流れから構成されたものでした。
私がピアソラを最初に聞いたのはフルートとギターの組曲<タンゴの歴史>。すごく気に入って「ギターとの二重奏でフルート吹いてみたい。難しそうだし、プロにお願いするしかないかしら?」と思ったりしておりました。その後スタジオに来られたギター奏者がプロを目指してスペイン留学もなさったことのある人で、スタジオでの内輪の演奏会でタンゴの歴史を共演したり、ギターの発表会で先生と合わせていただいたりして、「あのときの夢は実現している。」と思います。
ピアソラのお父様が亡くなったときに作られたアデイオスノニーノ。この曲を聴くと、お父様への愛情と感謝の思いに満ちているようで、私自身、(お父さん子だったので)自分の父親への思いと重なっていつも涙が溢れてきてしまいます。昨夜ピアソラ本人の演奏を聴いてまた涙‥でした。以下のyou-tubeの演奏ですとストリングスの甘くて優美なメロデイになるところで、お父様への厚い感謝の思いが溢れているように思えて‥。最近、お父様とお別れしたお友達からのメールに彼女の思いも重なってきます。父親は、かけがえのない本当に大きな存在だと思います。
以下ウィキペデイアからの引用
「1959年10月、ファン・カルロス・コーペス舞踏団とともにプエルトリコ巡業中、父親ビセンテ(愛称ノニーノ)が故郷で亡くなった知らせを受けた。しかし、ピアソラにはアルゼンチンに帰る旅費がなかった。ニューヨークに戻り、失意のなかで亡き父に捧げて作曲したのが「アディオス・ノニーノ」である。」
VHSビデオ ダビング中
2018.02.06
昨夜、渋谷のセルリアンタワー内にあるJZブラットで暮にプラネットでの演奏を聴かせてくださったピアノ岩崎さん、ギター高木さん、パーカッション藤橋さんのトリオでのライブがありました。私は聴きに行けなかったのですが、「そういうライブを浦和にいながらプラネットで聴かせていただけるって有難い。」とあらためて思いました。
暮のその演奏会の時にギタリストの高木さんから「プラネットに井上信平さんの会に来たことがあったんですよ。井上さんは今も来られていますか?」と聞かれました。ジャズフルートの井上さんのファンの会は都内に移られて今も続いています。会場が移られてからも主催の春◯さんから私にもお声をかけていただいたりしておりました。「井上さんがプラネットに来られていたのはいつ頃までだったかしら? その頃がスタジオも一番活況だったかもしれない。」と思います。
井上信平さんがスタジオに来られてのライブをビデオにしたものを主催なさった春◯さんから2本頂戴しておりました。2001年、2003年の時のものです。そのビデオ2本をパナソニックのブルーレイレコーダーにダビング中。今はピアノ羽仁さん、パーカッション海沼さんの三人のご機嫌な演奏を聴きながらブログ書いています。そういえば、私が渋谷のJZブラットに初めて行ったのが、パーカッションの海沼さんのライブでした。
ビデオからブルーレイにダビングする方法としては、かつては両方の装置(ブルーレイじゃなくてDVDだけ?)を備えた機器があって簡単に移せたようなのですが生産終了。我が家のブルーレイプレーヤーとVHSをつないで録画し始めたところで、ブルーレイプレーヤーの方がダウン。新規のブルーレイレコーダーを購入したら、前の機種は直接ブルーレイに録画できたのに、後継機種はハードにしか録画できないのだそうです。ハードからブルーレイにもう一度手間をかけなければなりません。
ビデオデッキはもう生産されていないので、我が家のビデオデッキがダメになったらVHSビデオは見ることができなくなります。当然ブルーレイへのダビングもできなくなります。ダビングして残しておきたいビデオの優先順位を決めて録画していこうと思います。ピアソラが来日した時のテレビ番組録画とか自分のフラメンコの発表会のビデオとか。当時我が家にいた愛犬を連れての旅行のビデオなどなど。どうかビデオデッキが長持ちしますように‥。
(あら!私がギター発表会で弾いたミスターロンリー、リクエストコーナーで井上信平さんがピアノ弾いているのでした。)
暮のその演奏会の時にギタリストの高木さんから「プラネットに井上信平さんの会に来たことがあったんですよ。井上さんは今も来られていますか?」と聞かれました。ジャズフルートの井上さんのファンの会は都内に移られて今も続いています。会場が移られてからも主催の春◯さんから私にもお声をかけていただいたりしておりました。「井上さんがプラネットに来られていたのはいつ頃までだったかしら? その頃がスタジオも一番活況だったかもしれない。」と思います。
井上信平さんがスタジオに来られてのライブをビデオにしたものを主催なさった春◯さんから2本頂戴しておりました。2001年、2003年の時のものです。そのビデオ2本をパナソニックのブルーレイレコーダーにダビング中。今はピアノ羽仁さん、パーカッション海沼さんの三人のご機嫌な演奏を聴きながらブログ書いています。そういえば、私が渋谷のJZブラットに初めて行ったのが、パーカッションの海沼さんのライブでした。
ビデオからブルーレイにダビングする方法としては、かつては両方の装置(ブルーレイじゃなくてDVDだけ?)を備えた機器があって簡単に移せたようなのですが生産終了。我が家のブルーレイプレーヤーとVHSをつないで録画し始めたところで、ブルーレイプレーヤーの方がダウン。新規のブルーレイレコーダーを購入したら、前の機種は直接ブルーレイに録画できたのに、後継機種はハードにしか録画できないのだそうです。ハードからブルーレイにもう一度手間をかけなければなりません。
ビデオデッキはもう生産されていないので、我が家のビデオデッキがダメになったらVHSビデオは見ることができなくなります。当然ブルーレイへのダビングもできなくなります。ダビングして残しておきたいビデオの優先順位を決めて録画していこうと思います。ピアソラが来日した時のテレビ番組録画とか自分のフラメンコの発表会のビデオとか。当時我が家にいた愛犬を連れての旅行のビデオなどなど。どうかビデオデッキが長持ちしますように‥。
(あら!私がギター発表会で弾いたミスターロンリー、リクエストコーナーで井上信平さんがピアノ弾いているのでした。)
明後日は今月二回目の満月 しかも皆既月食
2018.01.29
ブルームーンという歌があります。「ブルームーンというのは一ヶ月に満月が二回めぐってくること」と思っていたのでしたが、wikipedeiaを見ると某雑誌が誤ったことを載せたのが通説になってしまったようです。本来は一年を4つの季節に区切った3ヶ月間で4回満月があるときの3回目を言うのだとか、ちょっとややこしいです。関心のある方はwikipedeiaをご覧になってみてください。
数年前にハワイ島のすばる望遠鏡見学と兼ねて月食を観望するツアーがありました。当時、天文同好会にも所属していた私は<すばる望遠鏡>を見たくてそのツアーに参加したのでしたが、すばる望遠鏡見学の感激と同じかそれ以上にハワイ島のマウナケア山頂に向かう途中で観望した皆既月食は忘れ得ぬものとなりました。
皆既月食そのものはそれほど珍しいものではなく日本国内でも観望できるわけですが、暗さがまったく違うのです。月が地球の影に隠れるにしたがって、月の周りの星が徐々に見えてくるのにも感激。それまで煌々と明るい満月に照らされていた周囲は一転して真っ暗に。マニアックな人が多かったので三脚持参で月食の写真撮る人たちがいました。その邪魔にならないように離れた所で観望している私たちをツアーの責任者の方が見回りに来てくださるのですが何しろまったく見えない。闇の中で足音が近づいてきて「そこに誰かいますか?」「会田です」みたいな感じです。月の写真を撮っている人たちに光源は厳禁ですから、下手に懐中電灯の灯りも向けられません。(赤いセロファンを貼った懐中電灯で足元だけ照らすようにして歩きます。日頃の天体観測の時にも赤いセロファンの懐中電灯は必須。)
その暗闇を体験して初めて「月の昇るのを心待ちにした古(いにしえ)の人たちの心情」が分かった気がしました。満月を過ぎて昇ってくるのが遅くなる月に<立ち待ち月><寝待ち月>というような名称がありますが、美しい月を鑑賞するために待つのかとノンキに考えていたのですが、それ以上に月の明るさをも心待ちにしたのだと思ったのです。都会にいると月が隠れても街明かりでいっこうに暗さ(月明かりの有り難さ)など感じませんものね。
私は戸田天文同好会の2000年のオーストラリアへの遠征を機に同好会に入会しました。「地平線から地平線までのあの星空を見たら人生観が変わる」と言われて「一度そんな降るような星空を見たい。」と思ったのです。ハワイの真っ暗な星空はそのオーストラリアの星空と同じぐらい星で埋め尽くされていました。その満天の星空の中に赤銅色の幻想的な月がぽっかり浮かんでいます。星がまばらだと星座も見つけやすいのですが全天降るような星空では明るい星を見つけて星座線を結ぶのが難しくなります。
スタジオにプラネット(惑星)と名付けたので「天文同好会にいるぐらい星が好きだからなのか。」と思われたりすることがありましたが、話は逆で、スタジオに天文同好会の方たちが来られたのが縁で入会したようなことでした。2年前に退会してからは「久しく綺麗な星空見上げていないなぁ」と寂しく思います。
数年前にハワイ島のすばる望遠鏡見学と兼ねて月食を観望するツアーがありました。当時、天文同好会にも所属していた私は<すばる望遠鏡>を見たくてそのツアーに参加したのでしたが、すばる望遠鏡見学の感激と同じかそれ以上にハワイ島のマウナケア山頂に向かう途中で観望した皆既月食は忘れ得ぬものとなりました。
皆既月食そのものはそれほど珍しいものではなく日本国内でも観望できるわけですが、暗さがまったく違うのです。月が地球の影に隠れるにしたがって、月の周りの星が徐々に見えてくるのにも感激。それまで煌々と明るい満月に照らされていた周囲は一転して真っ暗に。マニアックな人が多かったので三脚持参で月食の写真撮る人たちがいました。その邪魔にならないように離れた所で観望している私たちをツアーの責任者の方が見回りに来てくださるのですが何しろまったく見えない。闇の中で足音が近づいてきて「そこに誰かいますか?」「会田です」みたいな感じです。月の写真を撮っている人たちに光源は厳禁ですから、下手に懐中電灯の灯りも向けられません。(赤いセロファンを貼った懐中電灯で足元だけ照らすようにして歩きます。日頃の天体観測の時にも赤いセロファンの懐中電灯は必須。)
その暗闇を体験して初めて「月の昇るのを心待ちにした古(いにしえ)の人たちの心情」が分かった気がしました。満月を過ぎて昇ってくるのが遅くなる月に<立ち待ち月><寝待ち月>というような名称がありますが、美しい月を鑑賞するために待つのかとノンキに考えていたのですが、それ以上に月の明るさをも心待ちにしたのだと思ったのです。都会にいると月が隠れても街明かりでいっこうに暗さ(月明かりの有り難さ)など感じませんものね。
私は戸田天文同好会の2000年のオーストラリアへの遠征を機に同好会に入会しました。「地平線から地平線までのあの星空を見たら人生観が変わる」と言われて「一度そんな降るような星空を見たい。」と思ったのです。ハワイの真っ暗な星空はそのオーストラリアの星空と同じぐらい星で埋め尽くされていました。その満天の星空の中に赤銅色の幻想的な月がぽっかり浮かんでいます。星がまばらだと星座も見つけやすいのですが全天降るような星空では明るい星を見つけて星座線を結ぶのが難しくなります。
スタジオにプラネット(惑星)と名付けたので「天文同好会にいるぐらい星が好きだからなのか。」と思われたりすることがありましたが、話は逆で、スタジオに天文同好会の方たちが来られたのが縁で入会したようなことでした。2年前に退会してからは「久しく綺麗な星空見上げていないなぁ」と寂しく思います。